最近はじめました。
動画。
ジンバル片手に行ってみた場所で撮影して、
割とドキドキしながら自宅で取り込み・編集というルーチンが無性に楽しい。
動画の知識もほとんど無いし、カメラは好きだけど決して上手くも無いし。
この「無い無い」が重なると単純に楽しい。
まだ遠出まではできてないのですが、近所にある寺や神社をお参りして御朱印もらって、
どういう経路で歩くかを頭の中で組み立てながら撮影して編集してみる。
「旅の記録」的なイメージで。
まだまだジンバルが揺れてるし、撮影技術も安定してなくて毎回試行錯誤だけれど、
「場数」だと思って、出てくる課題点を咀嚼しながら訪れた場所を巡った経路に順繰りと
「ウォークスルー旅ログ」みたいな感じにまとめてみようと思う。
「動画を撮るために」色々な場所を巡るのも悪くない。
こういった旅ログ系のYoutube動画を見てみると...上手い人は本当に上手い!
撮影自体が上手いのは当然なんだけど、実際に現地を歩いている感覚にさせる、
ストーリーの組み立てが上手い人は見ていて楽しい。
その場所を「歩いて」、景色を「眺めて」、空気を「想像」しながら、
その距離と経路と時間に「入口と出口」がある。
そんな「空気感」と「時系列」が存在する映像が好き。
純粋にその場所に行ってみたいなぁと思わせる「事前擬似旅行」をさせてくれる。
たぶん...「ストーリー」が重要なんだろう。
シーンが切り替わる時に「前」と「後」のシーンの、
距離感であったり景色であったり、物理的な「関係性」がスムーズに入ってくると、
切り替わったシーンの意味合いがわからず「思考迷子」にならずに
繋がりを感じながら効果的なタイミングで場面が変わり飽きさせない。
そこなんだろうなぁ...。
そんな映像を作ってみるのが目標。
桜のシーズン。
地元龍ケ崎で有名な般若院のシダレザクラ(樹齢推定500年!)を撮ってみました。
そして、撮ってみたかった東京駅のライトアップにも行ってみました。
まだほぼ全ての事柄が拙いのですが、
その他にも近所の寺社や撮ってみたいところをいろいろ回り始めましたので、
お暇な時にでも見てもらえると嬉しいです。
久々に飛行機。
ソラシドエア。響きが絶妙。
キャッチコピーは「空から笑顔の種をまく」。
これ、すごく好き(笑)。
最近では社名とキャッチコピーをセットでアピールするのがトレンドぽいのですが、
しっくりくるものは、社名だけ聞きけばキャッチコピーもセットで頭に浮かびます。
しっくりこないものは、どう頑張っても全然出て来ないけど...。
音感として記憶している、記憶させている。うまいですね。
大分県の玄関口、大分空港までは羽田から1時間ちょっと。
さすが温泉県。空港に足湯がある。
別府温泉とは、正確には別府八湯と言うらしいです。
どうやら8つの温泉の集合体の総称だということを知ります。
その8つは、鉄輪温泉、明礬温泉、堀田温泉、竹瓦温泉、浜脇温泉、柴石温泉、亀川温泉そして観海寺温泉。
今回は全部回ることはできなかったけど、6つ行けました(行きました。無理矢理ですが...)。
まずは、一番の代表地の鉄輪温泉へ。
「かんなわ」と読むみたいです。最初はそれすらわかりませんでした,,,
狭いエリアに路地が駆け巡り、路地の両壁には旅館や売店、公衆浴場がひしめき合って並んでいる。
イメージする古き良き温泉街そのまんまでした。
鉄輪温泉では、「蒸し湯」を体験。
一面に藁を敷き詰めた窯の中で蒸される蒸される...最後の方は藁も相当熱くなって、足がつかないように少し浮かせる筋トレ温泉。
そして、有名な地獄めぐりですね。
そして、浜辺まで移動して、「砂湯」も体験。
砂湯は、砂浜の一角にあって、目の前は一面の海。
顔以外の全て、ほんのりあったかい砂に埋もれて、一定のリズムに打つ波の音を聴きながら超リラックス。
スマホあづかるよーと言われ、渡すと、砂に埋もれた自分が写ってた(笑)。
今でも話のネタになっとります。
そして、一番行きたかった「泥湯」の明礬温泉へ。
泥湯はワイルドそのもの。目の粗い砂から細かい砂まで、落ち葉に混じって湯船の底に堆積してて、手でごっそりとすくえる。
湯船もたくさんあって、湯の数と、湯の個性の強さでは一番でした。
景色を堪能するなら観海寺温泉かと思います。
泥湯に比べると、さらっとしたお湯で「個性が強いお湯」...ではないのですが、
別府の街を一望できる眺望は最高。夜行くのもいい感じだろうなぁ。
別府の町も最高。
イカした路地裏を探しながら、面白そうなお店を探しながらふらふら街を歩く。
そこの曲がり角を曲がると唐突に温泉。次を曲がると唐揚げスタンド。
また曲がると猫が道の真ん中でニャーニャー鳴いてる。
そんな街。
歩き疲れたら、そこの曲がり角を曲がって気が向いた酒場へ。
別府駅から海岸までの狭いエリアには、公衆浴場や酒場がひしめきあってる。
この街はもう相当シアワセだと思う。
九州は地元愛が強い地域が多いと聞きますが、別府もたぶんそうだと確信しました。
狭い地域にギュッと凝縮された街です。
あいにくの天気の日もあったけど、本当にいい街 別府。
行けなかった柴石温泉と堀田温泉に行きたいな。
また飛んでみよう。
東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道。
江戸時代、日本橋を起点として東西南北へ伸びる交通の基幹街道。
江戸時代のもっともっと昔から隣の集落へ行くための道くらいはあって、
隣の集落への道とその隣の集落への道が繋がり、
踏み固められ、整備されて、なんとなく「道」として定着して、
果てしなく繋がったその「道」が、いつしか日本橋まで繋がり、
江戸時代になって政治的な意図が働いて、今に知られる名前になったのかな。
そのひとつ中山道。日本橋から始まり高崎〜諏訪〜関ヶ原と、
西へ西へ繋がっていきます。
その中でも特に行ってみたいと思っていた木曽路。
贄川宿から始まり馬籠宿まで十一宿。
走ってみました。
車で 笑。
■ 奈良井宿
奈良井宿は、古い街並みの雰囲気たっぷりの宿場町。
そして本当によく掃除されてる。。。すごいよ、ゴミひとつ落ちてない。
そして「ぼろぼろ」感はあんまりなくて、綺麗で品格のある古い街並み。
道幅が狭くなったり広くなったり...構造上なのか、故意なのか。
「桝方」という、万が一敵に攻められた際に、その進攻を緩めるため、
曲がり角を作りそれを阻む構造もあるようなので、
もしかすると意図的なのかもしれない。
■ 妻籠
妻籠宿。
細いメインストリートは両側にびっちり建物が並んで、
雰囲気最高(個人的には電柱がないのもポイント)。
当時もそれはそれは賑わってたんだろうなぁと思う。
曲がり角にあるリズミカルに打つ水車、街中を流れる運河のせせらぎ、
のんびりした時間の流れ、軒先で響く笑い声、
どこからともなく漂う美味そうな匂い、どことなくアヤシいお店、
出し抜けに通りを横切るネコ、そのどれもが最高。
売っているものや食べ物、現代といろいろ異なるところはあるけれど、
人が行き交い、立ち止まって話をしたり、お店の前でつい微笑がこぼれたり、
喉の渇きや空腹を満たしたり、今宵の宿を求めたり、他の街の情報を得たり、
時には人を追いかけたり、喧嘩したり、心が揺れる人に出会ったり、
袖振り合うのも他生の縁。
そんな、心が躍りそうなコトは、今目の前にある情景そのもの。
人間なんて今も昔もそう変わらないのだろうから、
時が違えど、目の前にある情景は、
はるか昔、賑わっていた頃の街角なんだと思った。
■ 馬籠宿
木曽路は、中山道の中でも特に険しい道のりで、
迷い込むと山姥に襲われるなどの言い伝え(?)がたくさんあるらしい。
善光寺に詣でるのも、木曽路を通らずわざわざ倍の道のりにもかかわらず、
北陸道から回ることもあったみたい。
そんな険しい山あいにも確実に人は住んでいて、人々の生活があったのだろう。
昔も今も人間なんてそう変わらないだろうから(今回2度目 笑)、
都の喧騒がイヤな人は、静かなこの地で、何処か居心地の良い場所を見つけて
ひっそりと火を灯していたのかもしれない。
木曽路のメインストリート、19号線は心地よい道。
両脇に広がる山々。間を縫うように続く1本道。寄り添うように流れる木曽川。
昔の人もこの道をてくてく歩いたんだろうか。
川縁の岩の上で流れを見ながらおにぎりなんて食べて疲れを癒したりしながら。
突然の雨で宿場の軒先で雨宿りしながら。
そして、はるばる何日もかけて木曽路を確実に歩いたんだ。
中学生の頃、
「空海 真言宗 高野山金剛峰寺、最澄 天台宗 比叡山延暦寺」
と習いましたよね?
暗記科目だった社会、実際どんなことが起こったか知ってますか?
僕は文字通りのことしか知らず、そしてそれに疑問も持たなかった。
ふと思い出したはるか昔(?)に習ったこのフレーズが頭をよぎりました。
空海ってそんなすごい人?
高野山ってどこだ?名前かっこいいけど。
金剛峰寺ってどんな場所?最初は「ぶ」が読めなかったよ。
そんな軽い気持ちで、高野山へ行ってみました。
天気は最悪、ずっと雨で、挙句に台風が真上を通っていく始末(苦笑)。
ひとりの人の感情の動きが、数え切れないほどの人に共鳴し、
その波動が徐々に日本中に広がり、やがて日本中を席巻する。
日本のどこかでぽっと沸いたたったひとつの感情が、
こうやって日本中を巻き込むムーブメントとなることでようやく教科書の1行となり、
そのおびただしい1行が重なり合ってあの教科書一冊になるんだよね。
その微かな1行になるために、
一体どれだけの血と汗(大げさかもしれないけれど)が流れたのだろうと...。
なんて考えながら雨の奈良へ。
空海は、774年 讃岐国で誕生する。幼名を真魚(まお)という。
大学にも通ったけど、勉学に飽き足らず19歳で修行の道へ進みました。
相当優秀。おそらく地元では天才と言われていたのかも...。
四国八十八霊場も空海が修行を行ったことから今日まで受け継がれているようです。
そして、31歳で唐へ渡った。
運命的だと思ったのは、同じ船団に最澄もいたこと。
そして、荒天により船団のほとんどが難破してしまったのに、
空海と最澄の船はからくも大陸にたどり着いたこと。
(最澄の方が8歳くらい先輩だったようです)
空海が唐で出会った真言密教が、高野山の礎。
高野山 金剛峰寺...と言われていますが、
ここには無数の寺院があり、まさに「高野山全体」が信仰の場所なのだ。
写真の大塔には大日如来像(神様中の神様)が安置されていて、
日光如来・月光如来を左右に従えている。
ここがすごい。本当に神々しい。
その薄く開いた切れ長の目を見ていると、
心の芯まで見透かされる感じがする。
「ちゃんとみてるからな」って言われてる。
本殿の中は決してきらびやかでない、でも荘厳な佇まい。
数々の屏風絵に空海が辿ってきた道のりが描かれていて、
ひとつひとつに見入ってしまう。
おもしろいな...というか当たり前なんだけど、本殿には食堂がある。
そして料理場もある。大きな釜が3つもあり、
3つとも炊くと2000千人分のご飯が炊けたらしい。
当時数千人の僧が真言密教を信じ、この地へ入り修行をしていたのだから、
当然と言えば当然なんだけど、普通の寺社では決して触れられない、
「僧の生活」が垣間見れたことがとてもおもしろい。
修行とは、この地での生活そのものなんだと思う。
世俗から離れることで、独自信仰の道を歩んだ高野山は、
いつしか一大勢力となり、その強大となった勢力は世俗から恐れられてしまい、
世俗から離れたいのに逆にちょっかいを出されてしまう。
織田信長や豊臣秀吉が高野山を服従させようとしたことにも納得。。
織田信長が本能寺の変で倒れなければ、
今の高野山は別な形になっていたのかもしれない...。
空海はこの地でご入定(ごにゅうじょう)する。
高野山には、少し離れた場所に奥の院という、
弘法大師廟がある。
廟までの道のりには20万もの墓がある。
戦国武将や偉人、現代の偉大な企業創立者の名もある。
この道の空気感は、これまで感じたことのないほど神々しい。
雨なのに、そしてなぜかお腹が痛いのに(笑)。
この先に佇む弘法大師廟ももちろん神々しいのだけど、
どちらかというとほっとするような静かな気持ちになったのとは逆に、
この参道は、心が揺れて揺れて落ち着かない。
おびただしい数の墓標は弘法大師を守ってる。
この参道には、心が揺れるほど無数の魂が漂っているような気がした。
そしてその魂は、決して安泰な最後を迎えたものではなく、
むしろ、世情に翻弄され志半ばにしてこの世を断たれた魂が多い。
特に目が向いたのが戦国の猛将の墓標だったからかな...。
奥の院の駐車場に、高野山のPRポスターがあって、
冬の参道の写真が写っている。これがまたすごいイイんだ!!
かすかな空気の揺れる音すら聞こえないだろう「静寂」がそこにはあった。
冬に来るとまた全然違うんだろうなぁ。
車じゃ標高900mのあの山道は厳しいかもね。
また絶対にこなくてはいけない場所だと思った。
紀伊半島は、お伊勢さんに春日大社、東大寺や法隆寺、そして高野山...
数を並べたらキリがないけど、日本の信仰の原点なんだと思う。
こうなると、空海と一緒に唐へ渡り、
悟りを開いた最澄が気になり始めた。
比叡山延暦寺。
いつ行けるかな。
〜〜〜
「如来」と「菩薩」の違いってわかりますか?
細かいことは難しすぎてわからないけど、
奈良大仏みたいに、頭がパンチパーマ(螺髪というらしい)もので、
身なりはいたって質素な佇まいで、眉間に点(白毫というらしい)があって、
指が華麗に印を結んでいるもの。
これは如来像で、悟りを開いたまさに「神様」です。
菩薩像は、王冠や着衣など、豪華な装飾品をまとったり、物を持っていたりと、
派手(?)な出で立ちで佇んでいます。
まだ悟る前の修行の身です(来世で如来になることが約束されている...らしいです)。
〜〜〜
古い街並みを歩く。
近江八幡へ。
昔、伊勢商人、大阪商人と肩を並べて語られる近江商人発祥の街です。
一回聞けばすぐに分かる企業で、近江商人の流れを汲むところが数多くあるそうです。
近江商人が往来した街は駅から15分くらい歩いた八幡堀という、
豊臣氏が築いた水路を中心に、当時の面影を残す建物が点在してます。
町名も面白くて、当時の職種の集落が伺えます。
鍛治屋町、博労町、為心町、魚屋町、東畳屋町、鉄砲町...。
八幡堀。
今のような綺麗な姿になるまでは荒れに荒れて手がつけられない状態だったようです。
地元の有志が市民に辛抱強く語りかけ、今の趣のある状態になったようです。
その時の投げかけが、
「死に甲斐のある場所」にしよう。
だそうです。
生き甲斐のある場所、働き甲斐のある場所はいくつもあるかもしれないけど、
人にとって「死に場所」はひとつ。
その場所...つまり近江八幡を「死に甲斐のある場所」にしようという言葉。
ぐっとつかまれる。
そんな風に思える場所があることはすごく幸せなんだろうなぁ。
そんな事を考えながら「近江商人」ゆかりの街を歩く。
「三方よし」
近江商人の商いの思想。
三方とは、「売り手よし、買い手よし、世間よし。」との意味らしい。
気持ちよく利益を得ること。
対価に見合うものを全力で提供すること。
この商売が必ずや社会のためになると信じきれること。
単純に当たり前だけど良い言葉。良い思想。
忘れてないですか??
と問われているみたい。
1985年8月12日。
当時は11歳。
EXPO'85が開催された年。
その事故は小学生の自分には、「飛行機は怖い」という印象。
それよりも地元茨城で開催されたEXPO'85の方に
頭が向いていたと思う。
この事故が再び自分に近づいてきたのは、
クライマーズ・ハイという小説。
お盆休みの真っ只中、大阪に向けて羽田を飛び立った日航機は、
離陸後墜落までの34分間迷走を続けて、群馬県御巣鷹山へ墜落した。
未曾有の事故現場へ、道無き道を這いずり回りながら登り、
現場を目の当たりにした記者が第一報として寄せた、
記者雑感のくだりは脳裏に絵が浮かんで読んでる紙面が霞んだ...。
それからずっと行ってみたかった御巣鷹の尾根。
登山口までは車で登ることができ、登山口から頂上までは往復で1時間半くらい。
頂上にはコクピットが激突したとされる「×」と書かれた岩、「バツ岩」がある。
ここを起点に扇型に機体は折れ破片が散らばった。
そして、そこかしこに墓標が立っていた。
そこは犠牲となった方々が発見された場所。
墓標にはお名前、当時の年齢が刻まれていた。
享年41歳。
今の自分と同い歳の墓標を見たとき涙が流れた。
この方は今の自分と同い歳のあの日、続いていたはずの歴史が突然断たれたのだと。
メッセージが彫ってある。
「やさしかったパパ」。
享年9歳。
この子は、今その歴史が続いていれば自分と同い歳くらい。
この子は何が起こっているか分からなかったのかもしれない。
ただただ本当に本当に怖かったと思う。
DNAレベルで、迫りくる「死」への警鐘が身体中で鳴り響いていたはず。
所詮人間が作り出したもの。
事故は無くならない。
でも限りなく0に近づけることはできるし、
自分が考えている以上に強烈なプライドと危機感を持って
安全を守ろうとしている「運ぶ」ことを生業としている方々に改めて感謝。
そんなことを考えつつ、激しい価格競争の中にある、
今の業界の流れはきっとなんかおかしい...とふと思った。
身近な移動手段でいうと車ですね。
その安全運行するための車検制度。
日本はとても厳しいですよね。
世界の車検制度を見てみると、
「制度はなく自己判断」という国々が結構あった。
先進国代表のアメリカもそう。
面白いのが欧州の国々。
ドイツは日本と同じ購入後3年、その後は2年毎。
イギリスは新車3年以降1年毎とより厳しい。
※ GSでできるみたいだけど。
それに対して、イタリアは製造後10年までは不要らしい。
逆にすべきじゃない?と思ったりした 笑。
静か。とても。
朝霧が漂う河川敷。
鳴子御殿湯の朝陽。
始発電車が橋梁をガタゴトと走る後ろ姿を見送りながら朝陽を眺めた。
こういう時間久しぶりなんだよね。
普段、朝陽はおろか夕陽を眺める事も無かったから、
とても静かになれる一瞬。
東鳴子の温泉街には違った時間が流れてた。
時雨が降ってた。
霧雨に浮かぶ小さな虹を見た。
洲崎灯台。
房総半島をぐるっと廻って。
シーサイドリゾート館山を越えると、
食材ひとつ買い出しにいくのに、
いったいどこまで行かなければいけないのか...
と不安になるくらいの田舎具合。
でもいいんだよね。
海沿いを、半島の輪郭を沿うかの様に一本道が通ってて、
沿道には、畑や家、たまにおばあちゃんと釣り人。
東京湾を挟んで対岸には、一千万の人がせわしなく行き交うギシギシした街なのに。
洲崎を越えると、白浜に向けてまたリゾート感満載。
この瞬間、、館山と白浜の間が
忘れ去られたような田舎具合の安心感。
空豆がおいしかったなぁ。
今年は、4年に一度の越後妻有 大地の芸術祭開催年です。
やっぱり自然が素晴らしい。そして、越後妻有の街並みも素晴らしい。
もちろん、住んでいる人も素晴らしい。
この3つが絶妙に調和した里山風景を体感するだけでも行ったかいがあります。
特に、中心街から離れて里山の方にあるアート作品の中には、
妻有の自然と調和して、さらに、そこに住んでいる人達とも調和して、
そして年月を掛け、そこに住まう人達が集う場所など生活の一部に組み込まれ、
まるでずっと昔からそこに存在してきたかのように溶け込んでいる所が素晴らしい。
アートってどこか「日々の生活」と乖離しているイメージがあるのですが、
ここでは、既にそこにある自然や空気、生活、風習、人々から発想を得て、
ほんのちょっと(...とはいえ、すんごい頭を使ってるとは思うのですが)アウトプットの
仕方を工夫して「分かりやすく見えるもの、感じれるもの」にしている事が
すごいなぁと思う。
写真は川西地区にある広い公園にある、レインボーハット(関口恒男さん)の作品。
大きいドーナツ型のアジアン風のテントに光のスペクトルを感じれる面白い作品。
35度の灼熱の妻有でもテントの中はちょっとだけ涼しい...気がする。
ハンモックもあってこれはのんびりできる場所。
「心の休憩所」。
「旅」はと言えば、とにかく暑かったなぁ...。
朝夕は涼しいものの、昼間の気温は35度オーバー。猛暑です。
滞在は、松之山地区にある湯田温泉のお宿です。
ここの温泉がぬるぬるな美肌の湯。
濃ゆくて最高です。露天は言葉通り「開放感抜群(笑)」。
「じっくり1週間くらいかけて見たいねー」と毎回思う。
...けど、たぶんそんなことは出来ないんだろうなぁとも思う。
瀬戸内アートフェスティバル 2013の開催告知の垂れ幕がありました。
妻有の「山」の里山風景と、瀬戸内の「海」の里山風景。
このコントラストを改めて感じたいなぁ。
そして、来年は徳島でもLEDアートフェスティバルというイベントがあるようですね。
同時開催とか、期間がかぶるなら両方とも見れるといいな。
前回も見たボルタンスキー氏の作品。最後の教室。
そして、初めて見る十日町のキナーレにある、同じくボルタンスキー氏 No Man's Land。
どちらも、人間の記憶、生死、(そして輪廻は個人的解釈)をテーマにした作品。
真っ暗闇の中、リアルな心臓音が爆音で轟く場内は結構怖い...。
そして「夢の家」。
こちらの部屋で瞑想し、見た夢を綴る。
「夢の航海日誌」。ロマンがあるなぁ。。
里山の優しい色合いからすごくギャップのある刺激的な部屋で驚いた。
それにしても、田んぼの香りが最高だった。
稲のいよいよ頭を垂れてきて、黄金色になる日も近し!
この里山がすでにアートだ(...とやっぱり言いたい...)。
やっぱりこれが結論だっ!!
「日本」という国に大打撃をもたらした3.11 東日本大震災。
発生から1年と2ヶ月後、宮城県七ヶ浜町に瓦礫掃除に行ってきました。
七ヶ浜町?訪れる前は「どこ...?」という感じでした。
震災時には、近隣の石巻や塩竈、仙台空港などの被災状況が知らされる中、
七ヶ浜町の情報は、個人的には触れる事がなかったと記憶しています。
七ヶ浜町は、仙台の東北20キロ程に位置していて、
周囲を太平洋に囲まれている小さな半島です。
ぐるっと太平洋に囲まれた七ヶ浜町。
震災時には15メートルの津波が押し寄せたそうです。
写真は、海岸沿いのおそらく公園だったのではないかと思われる場所です。
奥が海で手前が町です。そして、中央の建物は、おそらく公衆トイレ...かな?
町から海岸までの遊歩道的な部分はごっそりなくなってしまっています。
海岸沿いの住宅も壁や基礎を残して全て流されていました。
表札は残っているけど建物がない...そんな状態です。
丸4日間、田圃の瓦礫掃除・測溝の瓦礫掃除をしました。
知り合った方には、もう100日以上こちらに滞在している方や、
今年4月に現役を引退し、その足で七ヶ浜町にきた方、
地元がここで、学校を休学して、あるいは仕事を辞めて戻ってきた方など、
本当に多くの人の「人生」に影響を与えた3.11です。
初日は、99人のボランティアが集まりました。
スタッフの方曰く、「全盛期に比べると少なくなっている」との事でした。
人数だけで見ると、二日目が64人(減った...)、三日目24人(のぉ...)、四日目280人(すげぇ)。という感じです。
休日には、ボランティアツアーバスが来て、たくさん人が集まるようです。
作業の分担は、朝のミーティングで決定します。
そして、恒例(らしい)ラジオ体操で体と心をほぐして現場に向かいます。
東北弁(なのでしょうか...?)のかけ声がスピーカーから流れると、笑いが起こります。
正直、最初はどう立ち回ったらいいか分からず様子見でしたが、
スタッフの方や、長期滞在されてる方(もはやヌシです)のフォローが親切で、
すぐに打ち解けられました!
すれ違うときの「おつかれさまでーす」がこんなにも心地いいとは!
境遇も違えば、出身地も違うし、言ってしまえば生活文化の違う「個性」の集まりだけど、目標がハッキリしていることはお互いの距離を縮めますね。
作業は、至ってシンプルです。
目に見える範囲の瓦礫達を、燃える、燃えない、細かいの大きなのに区分しひたすら拾います。
それを土嚢袋に回収して一カ所に集めます。最終的には、トラックで一括収集するのではと思います。
とにもかくにも、ひたすら拾い続けます。
中腰でずっと地面を見ているので若干腰が痛い...完全に運動不足を露呈している自分がいるのですが、体と相談して休憩を適当に入れつつの作業です。
その後、重機が入り、土壌の天地返しを行い改めて見える瓦礫達の回収。
これを、幾度も繰り返してキレイにした後、塩抜きをするそうです。
今回掃除した田圃が今年試験的に作付けすることになったそう!
めでたい!よかった!うまくいくといいなぁ。
...という、自分たちが動く事でどんな事が起こるのか...という事も知らせてくれます。
これでやる気倍増ですね。
大変だったのは、三日目の測溝掃除。いわゆるドブ掃除です。
浜の砂で詰まった測溝は水分を含みとても重いです。
そして、あらゆるものが隠れています。
割れた瓦や窓ガラス、釘がむきだしの柱や壁などの家関連。
サッシやハンマーなどの道具類、本や服、靴などの生活雑貨。
そして、扇風機やDVDプレーヤー、ラジオやビデオデッキなどの家電製品。
作業中、一人の方が柱の釘を踏んでしまいました。
装備は万全に。
そして、危険と思ったら誰かの助けを借りる、意見を聞く。
普段、できているようで、出来ていない事...
抱え込まない事が重要です。
個人的には、CDやお守り、バッグや洋服など、
使われていた頃をイメージできるものが出てくるとこみ上げる気持ちが...。
バックなどは「その人」にとって大事な物が入っていないか確認してから、
集めて行きました。
期間中は、隣のサッカースタジアムの駐車場を借りて車中泊です。
結構な人数がここで寝泊まりしていました。
活動は15:00には終わり、16:00には解散となります。
ここからの1日が長い...です(笑)。
自分は、仕事も持ってきていたので、
PCを持って隣の多賀城の町へ通い仕事をする日々でした。
WiFi持ってればなぁ...と思いました。
食事は、基本的にセルフサービスです。
近くにスーパーがあり、食材を買って自炊したり、惣菜を買い出して
車中で食べたり、みんなで集まって食べたり(&少し飲んだり?)と。。
これが、本当に充実しています。
連絡先を交換し合ったり、出身地の話をしたり、作業に対して意見交換をしたり、
これまでの活動を話したり...みんな違う境遇ですので、話すネタがつきる事はないです。
ボランティアだからと言って、過剰に被災地・被災者に遠慮したり、
ちじこまっていては、早い復興なんてできないと思いました。
目標は「復興・復旧」。これを目指して、今何が必要か、今何をすべきか...
自分で考え行動する。
という4日間。帰りたくなかった!本当に。
また、時間を作って七ヶ浜町へ駆けつけたいと思います。
そして、活動中に知り合った方ともお会いしたいです。
自分が出来る事。
自分で考える事。
相手の気持ちに立つ事。
当たり前の事ですが、改めていろんな事を思い直した日々でした。
ありがとう。七ヶ浜町の皆さん。
そして、少しでも自分とお話をしてくれた皆さん。